頭痛が痛い

怪文を綴る腐女子

「天ヶ瀬冬馬」という概念

11月30日、冬馬くんのサイドメモリーズとやらが追加された。

実はこれまでサイドメモリーズ(以下サイメモ)にはほぼ触れたことがなかったのだが(四季と桜庭のを開放したくらいで、読んですらいない)、冬馬くんが追加されたとあっては触れざるを得ない。このサイメモというのは、どうやらこれまで使用用途がよくわからなかった心の付箋の使いどころらしい。その心の付箋をアイドルから信頼を3得るためだけに使ってしまっていた私は、速攻冬馬くんの復刻ガシャを回して付箋を得た。回しても回しても常に冬馬くんが出るガシャは新鮮だ。冬馬くんのカードはチェンジしてしまったSRを除いて全て所持しているので特に回す意味はないのだが、担当がたくさん出るガチャとあっては回さずにはいられない。

そんなこんなで得た心の付箋を使い、私は冬馬くんのサイメモを一気に全開放した。

ところでこれは余談だが、サイメモを1話開放するのに付箋が一枚、信頼度を3上げるのにも付箋が一枚というのはレートがおかしくないだろうか?アイドルにとってサイメモ1話の出来事は信頼度3相当でしかないのだろうか。SR+の信頼度をMAXにしようとしたら、サイメモを100話も開放しなければならない。ワンピースならグランドラインに突入してしまうし、チャージマン研なら研がジュラル星人に完全勝利して2週目に入りボルガ博士をまたスカイロッド号から落とすところだ。さすがに2度目はボルガ博士もお許しくださるかわからない。アイドルの信頼を得るのは長い道のりらしい。

余談が過ぎた。チャージマン研全話を2周も見るのは気でも狂っているんじゃないのか!?

話を戻す。冬馬くんのサイメモを読んだという話である。

 

結論から言うと、とても良かった。天ヶ瀬冬馬を描くにあたって、ポイントとなる彼の良さをしっかりと描写している。

サイメモ2話で、半透明の怪しいモブに名前を間違えられる例のネタが出てくる。前回の記事でも散々書いたが、私は冬馬くんが名前を間違えられてもきっちりとツッコんでくれるところが大好きだ。少々面倒なことを言うと、あれは765Pの雑なボケに対する真面目なツッコミだからこそ……というのはあるのだが、まあこの辺を言い出すとキリがないので置いておく。あのツッコミは、冬馬くんがどんなものに対してもまっすぐ真剣に向き合っていることの象徴だ。冬馬くんは人に対する偏見を持たない。たとえライバルが女の子であっても、女だから劣っているという決めつけはしない。初対面でぶつかって悪態を吐く人間であっても、他の人間と同じように向き合ってくれるのだ。

と書いていて思ったが、初対面でぶつかってきて悪態を吐くってこれまんまアイマス2の冬馬くんではないだろうか?サイメモの冬馬くんは「しゃべってただけじゃねえか…」と不満を露にしていたが、お前もうちのやよいに後ろからいきなりズンズン近づいてきて「どいてくれ」と偉そうに言ってたぞ。聞いたところによるとお前やよい以外のアイドルには「どけ」ともっと偉そうに言うらしいじゃないか。なんで初対面なのにやよいにはちょっと優しいんだ。

しかし悲しいかな冬馬くんはやよいではないので、半透明モブには全然優しくされずめちゃくちゃボロカス言われるのであった。これには冬馬くんも怒り心頭……かと思いきや意外にも平常心だった。大人になったね……。

そして怪しい台本の真相をPに任せ、自分は最悪の状況に備えるというのも冬馬くんらしい。私は、冬馬くんは「置かれた状況に対してどう動くべきか」の判断が確実に出来る子だと思っている。冬馬くんは真っ直ぐ生きている分、問題に真正面からぶつかってしまうことも多い。だがぶつかってしまったとき、何が最善なのか、何を優先すべきか、冬馬くんはちゃんとわかっている。生放送を楽しみにするファンのため、事務所で待つ仲間のため、本番で「何も出来ない」という状況だけは回避しなければならない。たとえそれがマンボウの演技だとしてもだ。冬馬くんがそういう判断が出来る人だからこそ、翔太と北斗は冬馬くんのことを信じてついていくのだ。「今の俺にできることをやるだけだ」というのは冬馬くんの中に常にあるのだろう。

そして、そんな冬馬くんにとっての頼れる存在であるPとの話でもあった。

アイマスにおいてPという存在は当然頼れる人というのが当たり前なのだが(メタ的なことを言うとそうでないと話にならない)、これが冬馬くんの場合背景が少し変わってくるだろう。冬馬くんは、信じていた大人に裏切られて315プロにいる。冬馬くんにとってPとは、ただ信頼できる人というだけでなく、「今度こそ」信頼できる人なのだ。EoJでの「冬馬くんの心の傷は本人が思っているよりも深い」という台詞は死んだら墓石に刻もうと常々思っているのだが、この言葉の通りなら、冬馬くんは「自分を信じてもらえなかったこと」「相手を信じられなくなったこと」にきっと傷ついているのだろう。なまじ本人がハイパーストロングメンタルなせいではた目にはそうは見えないが、EoJでも自分たちだけでなんとかしようともがいていたあたり結構なダメージだったのではないだろうか。アニメとゲームを混同した考察で申し訳ないのだが、冬馬くんは同じ冬馬くんなのでボルガ博士、お許しください!(ウゥワアァァーーーーーーー)

冬馬くんは一人で割となんでもできてしまうタイプだ。無人島に放り込んでも多分なんとかなる。一人で家を建てて海に潜ってチネって、なんやかんやで一か月は生き延びるだろう。あまり人に頼るということを必要としなかった人間ではないだろうか。

 人を頼るというのは、簡単そうに見えて容易いことではない。優しい人ほど、人に頼ることができない。誰かに頼るというのは、その誰かのリソースを奪うことに他ならないからである。自分で解決してしまえるならそれに越したことはないのだ。しかし、頼るという行為は信頼の証だ。あなたなら私のために時間を割いてくれるだろうというある種の驕りの表れであり、また相手にとって自分はそれほどの価値があるという誇りでもある。「頼れる人」というのは実際難しいというのが私の考えだ。はたして冬馬くんがそこまで考えているかは定かではないが、どちらにせよ冬馬くんにとって新しく「頼れる人」が出来たというのは、彼自身の成長でもあると思っている。これまで10の案件を一人で10解決しようとしていた彼が、1でも他人に預けられるようになったことは良いことだと素直に思った。

 

もうひとつ、冬馬くんを描くのに欠かせない事項。彼が「天ヶ瀬冬馬」であることだ。

天ヶ瀬冬馬」はひとつの概念だ。冬馬くんが「天ヶ瀬冬馬」として両の足で地に立ち続ける限り、彼は存在し続ける。冬馬くん以外の誰も「天ヶ瀬冬馬」にはなれないし、「天ヶ瀬冬馬」もまた冬馬くん以外の誰でもない。 冬馬くんと共に存在する「天ヶ瀬冬馬」という概念は、他者に強く影響する。「天ヶ瀬冬馬」は、簡単に他人の人生を狂わせるのだ。サイメモに登場した半透明のモブもそのうちの一人である。「天ヶ瀬冬馬」を見てアイドルを志した彼は、ステージの上の「天ヶ瀬冬馬」に打ちのめされ、そして再び「天ヶ瀬冬馬」によって救われた。彼だけでなく、「天ヶ瀬冬馬」に人生を変えられた人はたくさんいる。時代が時代なら銅像を建てられて、今頃待ち合わせスポットになっていたことだろう。「そんじゃ3時に天ヶ瀬前ね〜」とギャルが天ヶ瀬冬馬像に集うのだ。羨ましい。私も天ヶ瀬前に集合したい。だが残念ながら冬馬くんはまだ銅像にはなっていない。存命だからだろうか。それはとりあえず置いといて、冬馬くんはそれほど他人に影響を与えるという話をする。

しかし、冬馬くん本人にその自覚はない。彼は常に前を向いて自分の道を進んでいるだけだからだ。誰かを変えようだなんて思っていないし、変えられるとも思っていないだろう。前の記事で少し書いたが、冬馬くんは自分と同じ水準を相手に求めがちなところがあると思っている。元々の才能に加え努力すれば大抵のことは出来てしまう彼は、努力を放棄する人間を理解できない。ましてや努力を怠って卑怯な手に走る人間などなおさらだ。たとえ実力がなくとも、卑怯な手は使わず正々堂々勝負しろと冬馬くんは言う。よほど向上心のある人間でないと、彼の近くにいるのはつらいだろう。

だが、「天ヶ瀬冬馬」は圧倒的に正論だ。

どんな理由があろうと卑怯なことは許されない。結果はどうあれ努力はすべきで、その姿勢こそが一種の実力でもある。しかも冬馬くんはそれを有言実行しており、その正しさを自らをもって証明している。「天ヶ瀬冬馬」という覆せない正しさに、敵う者はいない。冬馬くんはいつだって真っ直ぐに生きている。彼にとっては逸れる道そのものが無く、目の前に伸びる道を進む以外に選択肢は存在しない。常に正しい道を行く冬馬くんの結論は常に正しく、その正しさこそが「天ヶ瀬冬馬」なのだ。「天ヶ瀬冬馬」という生き方はあまりにも眩しく、見る者の影をありありと見せつけられる。冬馬くん自身は普通に生きているつもりでも、「天ヶ瀬冬馬」という存在そのものが他者をねじ伏せてしまうことがあるのだ。ある意味冬馬くんも被害者でる。昔、テニプリの五感を奪うテニスを見て「この人は普通にテニスしてるだけなのに、相手が勝手に五感を失ってまともな試合にならないのはかわいそうだなあ」と思ったのだが(私は幸村くんについて全く詳しくないので頓珍漢なことを言っていたら申し訳ない)、冬馬くんにも同じことが言えるのかもしれない。

もちろん、「天ヶ瀬冬馬」が他者に与える影響はネガティブなものばかりではない。というか、そうでないことの方が多いはずだ。今回の半透明モブも冬馬くんに憧れてアイドルになったのだし、そういう人は多いだろう。WD2015イベの冬馬くんの【憧れのアイドル】という肩書が私は大好きなのだが、まさしく「天ヶ瀬冬馬」というアイドルを一言で表していると思う。「天ヶ瀬冬馬」の輝きはアイドルとしての理想そのものであり、最終地点ですらあると思っている。彼の眩しさは他の追随を許さず、一点の曇りもない。誰もが目指す存在として、憧れられる存在として、「天ヶ瀬冬馬」以上の者はいないのではないか。もちろん目指す方向性の違いはあるだろうが、究極、突き詰めていくと全ては「天ヶ瀬冬馬」に集約する。「天ヶ瀬冬馬」は間違いなくアイドルの頂点だ。しかしそれに驕るどころか本人は頂点にいる自覚がないため、さらに上を目指そうとする。非の打ち所がないとはこのことだ。「天ヶ瀬冬馬」がアイドルの擬人化たる所以である。前回の記事とまた同じことを言っているが、宗教の話をしているので軽く聞き流してほしい。

 

冬馬くんは、挫折して立ち止まってしまった人間に手を差し伸べるような人ではないと思っている。たとえそれが仲間であっても、冬馬くんは立ち止まらない。そんな奴は放っておいて、自分だけさっさと先に進んでしまう。冬馬くんはそういう人だ。けれど、前を走る冬馬くんの眩しさに、自然と顔を上げ、いつしかその背中を追っている。そうして冬馬くんに救われた人が、きっとたくさんいる。

私はそんな冬馬くんを追いかけるので精一杯だ。冬馬くんについてわからないことが多すぎて、こんな怪文まで書く始末である(ここまで一気に書いてしまったが、読み返したら本当に怪文で我ながらちょっと引いてしまった)。わからないなりに必死に追いかけているが、マイデスクに行くと冬馬くんは待っていてくれるので、私はそのたびに少し泣きそうになるのである。